客観芸術や体験芸術など、作者の主観(技術、情感)を排した作品が多くあるように感じます。 ウォーホルのように機械になりたいと言ったアーティストがいた中、Aiの絵画に43万2500ドル(約4800万円)の価値がついたことに対してどう思われますか?客観芸術において人間はAiには敵わないのではないでしょうか?
というのが、元の本文です。
主観について(技術、情感)を排した作品
作者が企画し、形を作り、発表する、これは主観そのものです。私は、アートが人工物である限り、物質を操作する限り、主観からは逃れられないと考えています。
「客観芸術」とは、誰もが同じように作ることの出来る方法で、個人的感性を極力なくす作品を示しているようです。それでも、前述の操作は行っていますし、体験芸術は言うまでもありません。
主観を完全に排するということは、人工物である限り、可能だとは思っていません。
Aiの絵画に43万2500ドル(約4800万円)の価値がついた
これも具体例を検索してみました。AIによって作られた実験的絵画であることは確かですが、厳密には、人間がAIにプログラムを打ち込み、AIがどのような作業をするか、操作しています。私には、絵の具や筆の代わりに、AIを「道具」として出来た作品に思えるのです。
ただ、このような「道具」は、今までにない新しいものですので、新しいものというだけでも評価=価値を認める人はたくさんいます。私はというと、それがアートとして、新しい感覚やビジョンを示してくれるものであるかどうか?今後の成り行きを静観したいと思います。
ウォーホルのように機械になりたいと言ったアーティストがいた
確かに、ウォーホルは、そのように発言しています。しかし時代が違い、当時の機械は大量生産を行う、今の人工知能とはかけ離れた無機的な存在でした。質問者の意図する、ウォーホルとAIの関係には違和感を感じます。
「機械になろうとする人間と、人間になろうとする機械」、これは質問者の言葉ですが、サイバーパンクで取り上げられている興味深いテーマです。アートオンデマンドで、アンリ・ウォーホルを掘り下げると共に、更に掘り下げたい見たいテーマでもあります。
客観芸術において、人間はAiには敵わないのではないでしょうか?
操作という作業が必要な点で、これからも人の意図や判断は入り続けると思います。AIについても、プログラムがなければ働かないという構図は、変わらないはずです。
かといって、計算処理能力、統計的判断など、人がAIに敵わないものもたくさんあります。これからの流れとして、AIが優れているところは、間違いなくAIにとってかわられるでしょう。
しかし私は、AIが万能なわけでも、人がAIより優れているものがないわけでもない、と思います。やはり創造性というものが機械に可能なのか?という疑問が湧いてくるのです。ピカソのゲルニカが、機械に生み出せただろうか?あの激情を、あの形をイメージし、組み立てることが、機械に出来る仕事のようには思えません。
機械VS人の感性
AIの登場を切っ掛けとして、人間が優れているものは何か?という議論も行われていくと思います。
「人の創造性とは何か?」「絵とは何か?」「描くという行為とは何か?」を掘り下げる切っ掛けにもなれば、創造性にとって、プラスに働くこともあるはずです。例えば、写すことは機械が得意だが、写真そっくりに描くことの意味は何か?というように考えると、我々が何を目指して行けばいいかというヒントになると感じます。