ーこのコラムは、オリンピック・ロゴ デザイン案不正が騒がれていた頃、その話題と、絵を描く「肉体」と絵を描く「情報」がインターネット上で分断されている状況とを絡めて論じたものです。ー

お絵描きソフトウェアの進化は、著しいものがあります。妻がマンガを描いていることもあり、お絵かきソフトウェアの動向は、リアルタイムでチェックしていますが、3D画像を基にトレースするだけで、画力が無くても、簡単にマンガが描けるようになりました。人間の形が、既にプログラムされているので、わざわざ人物を描く練習をする必要がありません。

では、マンガイラストの世界では、もう人物を描く練習は必要ないのでしょうか?マンガイラスト以外でも、鉛筆の扱い方は?絵の具を塗る技は?アナログで多く行われていた技術は、デジタルに置き換わってしまうのでしょうか?私はそうは思いません。人間が、目で、手で、感覚を投入してきた世界は、クリエィティブの源となっていると思うからです。

あるベテランデザイナーが、過去のデザインワークについて論評を書いていらっしゃいますが、昔デザインは全て手作業で職人仕事で行っているものだったそうです。そして苦労し吟味し、「念」のこもったデザインがされてきた、と。昔の方々は感覚を総動員し、情報も人に会い、足を使って集め、手作業で試行錯誤をしながら、デザインを完成させてきた訳です。

今は、検索すればありとあらゆる「デザイン案」「名画」に触れられます。そして、デジタル機器+ソフトウェアで、昔よりはるかに楽にデザインが起こせるようになりました。職業デザイナーの人口も多くなりました。デザインの質は、(デジタル機器のおかげで、手作業に比べれば)一見完成度は高く見えるのですが、「念」のこもったデザインは少なくなりました。そして、残念ながら、デザイン料は格段に安くなり、腕のあるデザイナーがいくら質を追及しても、見返りを受けにくくなりました。

それは、インターネットで簡単に情報が手に入ること、デジタル機器で簡単に似たようなデザインを作れるからです。悪貨は良貨を駆逐するという言葉通り、自分で苦労してアイデアを絞リ出すことも無く、職人技で形を吟味することも無く、簡単にデザインが作り出せるからです。どれだけ手間をかけて苦労して良いデザインを作ったとしても、苦労に見合う金額を貰えないとしたら、、、デザインの未来は明るくありません。

難しさは、デザインの良し悪しが判別できるか?というところにもあります。安価な、あるいはフリー素材のデザインが、一般的に認知されてしまい、それが当たり前になってしまえば、「念」のこもったデザインを判別する人はいなくなっていきます。そして、目で、手で、感覚を投入してきた世界を持つ人が少なくなってしまえば、「念」のこもったデザイン自体が無くなっていくでしょう。

デザインをメインにして書いてきましたが、アートの現場でも同じように、便利さと引き換えに、職人技や脳で汗をかくブラッシュアップは失われていく傾向があり、このことを危惧しています。私も、もちろん情報社会の一員ですが、急速に均質化され、感覚が薄くなってきているのを自覚する一人として、便利さには功罪両面があると感じています。今話題のオリンピック・ロゴ デザイン問題でそのような点が明らかになったと思いますし、ネット社会とクリエイティブ、情報と肉体の関係をどのようにバランスを取っていくか?、これからも難しい判断を迫られると思います。

しかし「歴史」「感覚」「生々しさや感動」は、それは生身の人間が感じるもの、人間である実感だと思いますし、その実感を持ち続けるには、(めんどくさくとも不便でも)実際に目や手を使って、感覚を鍛えることから離れることは出来ないと考えます。デッサンに関しても、不要論やコストパフォーマンス含め様々な声が聞こえて来ますが、目で、手で、感覚を投入し、物事を掘り下げる人、本質に迫りたい人、歴史を大切にしたい人が、いなくならないなら、復活すると思います。