ー津久井やまゆり園  障害者45人が殺傷された事件に関して書かれたコラムです。ー

「障害者は要らない。」とする犯人の主張、輪をかけて、それに同調するネット世論があり、私は強い怒りを感じた。私の息子には、軽い障害がある。

これは、有無を言わさない暴力であり、障害を持つ人や、障害をケアーする人たちの立場、意思をまったく組まない行為である。加害者は、未だに反省の弁を持たない。日本のためにしたことだと主張している。いかなる理由があろうとも、他の命を排除することは正当性は無い。「障害者は要らない」とする命の計量は、いかにして行えるのか?何人が、それを行うことが出来るのであろうか?如何にして、人の優劣を判別するのか?

自らは優れ、劣っているものは排除するべきだという論理を、優性思想という。本来なら、命の優劣を決めることは、自ら(自分たち)が神だ、と公言するに等しい傲慢なことだが、歴史的に実に多くの国が神の国となり、国民が神の僕となってきた。肥大した自尊感情は、閉鎖的で同質化した環境において、感情的な判断、生理的な判断に偏るならば、優性思想という暴力的な差別意識として、直ぐに頭をもたげる。今も、優性思想というものが案外身近なところに存在する。

被害者遺族のコメントも悲しかった。多くの人が、ご自分の肉親である被害者の名前を公表しなかった(現在は、徐々に公表する方が増えている。)。ある方の書いたコメントの中で、「この国は優性思想が根強く、、、後略」というものがあった。被害者の名前を公表することにより、インターネットでこの犯人に同調する心無い書き込みによって、二次被害を受けることは容易に想定できる。優性思想同調者たちは、被害者の方々に二重の苦しみと悲しみを与えたのである。

我が家でも喧嘩が起こった。「世間には本音と建前があり、ほとんどの人間は実は障害者を迷惑な存在だと思っている。」と妻は言う。この事件を通して、世間がますます障害者に冷たくなるのは?と疑心暗鬼になっているのだ。私も、世間ではそのような考え方は未だ根強いと思っている。障害者を持つ肉親が、世間に迷惑をかけ、頭を下げながら生きていかなければならないと思っていらっしゃるかもしれないこと、そのような世間の無言の圧力があること、私には痛切に理解できる。このような事件が起こって、障害者がますます肩身が狭くなるというのは、理不尽そのもの、許し難いことだ。世間や妻の本音というものが、心を苛んだ。

障害とは何か?何に対する障害なのか?我々は様々な「ものさし」を持って、能力を判断し、人の持つ機能を社会の役割に当て嵌めているが、その一つの「ものさし」が障害という区別を定義している。息子は、明らかに、健常児と比べて出来ないことが多い。しかし成長段階で、出来ることが増えてくるのも確かである。その時常に、私の中で世間の「ものさし」と、息子の出来ないことが多いという現実がぶつかり続ける。ここに私の中にある世間と、障害という現実との葛藤がある。
障害を持つということは、本人が望んでそうなるわけではない。家族もそうである。いつ何時、そのような身の上になるかもしれないことは、誰もが可能性として否定できない。障害というものは、それほど特別なことではない。私は、命の計量が出来るのは神様だけで、障害を持とうが持つまいが、命は平等であり、息子のことを世間に対して、まったく卑下する必要は無いと思っている。だから、私も妻も、息子の発達障害のことを明け透けに公言している。ここに優性思想や差別を根強く内包している世間と、私たち家族の葛藤がある。世間、障害の現実、命の価値というものに常に心を悩ます心理的複雑さは、身近に障害を持つ人がいる人しか、分からないものかもしれない。

この犯人は、障害者差別を持ち出し、「この国のためには障害者がいない方が良い。」という優性思想に短絡的に結び付けたのだが、これは自分の劣等意識を覆い隠すことにもなっている。彼は自分が優秀であるという態度を崩さないが、どんなに論理武装しようとも、排除される側に自分はいない。弱さを認め、受け入れることが優れた姿勢であるなら、弱きを排除し自らの弱さを穴埋めするのは、卑怯そのものであり、愚かな姿である。
優性思想にも、同様の構造を感じる。困難や問題点を、外側に原因を求めて問題をすり替えたり、内側の弱者に向けた差別によって、自らを優れた存在として誇る。だからファシズム、ポピュリズムと共に差別が常に存在し、ハンセン氏病や部落のように、生理や感情といった根深い問題と共に差別はある。そこで何とか立ち直るきっかけを与えてくれるのは、理性だけだ。

殺人はもちろん罪だが、障害を持つ人や、障害をケアーする人たちの立場、意思をまったく組まないことは、罪ではないのか?生理や感情のままに、差別発言をすることは、罪にはならないのか?戦後多くの人が、軍部の言いなりになっていただけで、自分は何も知らなかったのだと言っていた。ナチスに加担した人も、そのようなことを言っていた。知らないこと(知ろうとしないこと)、他人のことはどうでもいいと思うこと、これらは今回の事件の遠因としてピッタリ重なるように思える。

文頭に書いたように、この件に関しては怒りを禁じえないし、全文を通して怒りが底辺に感じられる文章が多いことに、ご容赦をいただければと思う。自己愛、自己肯定も、弱さも、怒りも、障害でさえ、病や加齢によって多くの人が持つ現実、我々は不完全な存在である。私は、むしろ愚かな者として、多くを共有できることを幸いだと思う。本音と建て前を使い分け、優れていると白々しく表を飾り立て、自分を棚上げにして人を切るよりは、よほどマシだと思うのだ。