ーインターネット・リアリティー番組出演者の女性が、誹謗中傷を受けて亡くなった事件に関して、書かれたコラムです。ー

この度の、ネットによる誹謗中傷で、若い女性が亡くなったこと、深く考えさせられました。正しいと思うこと、優れていると思うことの、危うさです。
正しいと思うことは、正しくないものを生みます。
優れていると思うことは、劣っているものを生みます。
つまり、議論も、客観性もない、ただ「そう思う。」というだけの感情的な判断が、正しくないもの、劣っているものの存在を定義する危険性です。

正しいこと、優れていることは、本当のことである、つまりリアルなものと言って良いものでしょうか?常識、世間体、空気によって、正しい、優れている、と思っている人も多いと思います。
国、人種、時代によって、正しいこと、優れていることは、変わってこないでしょうか?
正しいこと、優れていることは、絶対視するのではなく、相対視するべきだと思います。

多数は、正しいこと、優れていることになるか?

多くの人がそのように思っていることは、正しいこと、優れていることになるでしょうか?
多数派の意見に対して、少数派は、正しくないこと、劣っていることになるのでしょうか?
例えれば、美人、花、自然、富士山の絵は多くの人に好まれるのですが、そのような画題なら成功間違いなしでしょうか?そのような画題ばかり描き続けていくべきでしょうか?それは、ワクワクドキドキの無い世界であり、多様性の乏しい世界になるでしょう。アートは、常に少数派が次の世代を作っていくので、多数派だからといって、正しくも優れていることもありません。

他のことは、アートのように分かりやすい例にはならないでしょうが、多数決は正義であるかの言説には大きな疑問を感じます。たくさんの人が同意し、時間の経過したものでさえ、偏見や差別が含まれているかも知れません。本当に正しく、本当優れたものになるためには、異論や反論に揉まれる必要があると思います。それでも、100%こうだ!と言い切れるものがあるとは思えません。

一部の集団が、私の意見は正しい、お前は間違っているとして、正しくないものを糾弾することは出来るのでしょうか?今回、リアリティー・ショーの観客の一部は、私たちの意見は正しい、お前は間違っているとして糾弾して、その人を自殺に追い込んでしまったわけです。リアリティー・ショーの何がリアルだったのでしょうか?リアルとは、多面的には、正しいこと、優れていることは成り立たないということです。

いじめ、差別と、正しいこと、優れていること

正しいこと、優れていることは、自尊感情と隣り合わせであり、それが案外、劣等感情と隣り合わせであることはご存じでしょうか?劣等感を否定するために、自分より正しくないもの、劣っているものを攻撃対象として、否定し糾弾するわけです。これは、いじめや差別の構造です。対象を蔑むことで、自分は対象より優れているというように「良い気持ち」になる。これは理性的ではありませんが、リアルな人間の感情です。誰にでもある感情的から生まれる根深い問題なので、差別の歴史は繰り返されてきました。

絶対主義、独裁主義、及びポピュリズムにも、似たようなものを感じます。このエリアでは、少数派や反対者がひどい目に遭います。正しく優れていることを信じて疑わないことは、別にその人の自由なので結構ですが、他の人にも、その人なりの正しく優れていることがあって良いはずですし、それを否定する理由も優劣をつける理由もないと思われますが、、、。

インターネットと、正しいこと、優れていること

今回、どうして、人の存在否定まで行き着いてしまうのでしょうか?ここには、インターネットというものの特性も感じます。一部の感情が、過度に、急速にクローズアップされる環境が、インターネットにはあります。匿名、無名、多重名とアイデンティティがあいまいだと、人目を気にせず、感情をむき出しにさせてしまう事も在ったでしょう。目立ったムーブメントが、対話や議論を挟むことなく、周りを巻き込みながら同質の集団を大きくさせて行きます。根拠が無くとも、客観性が無くとも、その勢いは止まりません。

Brigitteや(前々回の)アメリカ大統領選、陰謀論にも同じような構造を感じますが、今回、人を死に追いやるような事態を招いたのは、やはり傲慢さを感じます。どうしても正負、優劣を付けたいのであれば、是非、議論をしていただきたいと思います。