Identity =自己同一性、同一性、主体性
人格における同一性、ある人の一貫性が成り立ち、それが時間的、空間的に、他者や共同体にも認められること。
アートにとって、大変重要な言葉です。
そして、説明するのに大変骨の折れる言葉です。
多方面から掘り下げたため、大変長い文章になってしまいましたが、ご了承ください。
簡単に言えば、あなたは何者ですか?に対する答えです。
あなたは何者ですか?と聞かれれば、どのようにお答えになるでしょうか?
まず、国籍、名前、会社(仕事)などがあります。
パスポートは、これらの項目で、アイデンティフィケーション=個人識別します。
また、戸籍には、家族環境が含まれます。履歴書には、学歴が含まれます。
このように、自分を社会的に規定するもの、これらはアイデンティティの一部です。
アイデンティティの一部とした理由は、これらは外部から規定したものだからです。これら社会的規定が無いと、無国籍、無名という、社会的に存在していない人になります。しかし、自分は消えてなくなる訳ではありませんし、肉体と精神は存在します。肉体と精神というものは、その人の主体、中身です。主体や中身はアイデンティティの半分ですので、アイデンティティは社会的規定だけではなく、肉体や精神の両面からも考えていくものです。
アイデンティティの参考文章
ヴィレム・フルッサー
「サブジェクトからプロジェクトへ」
「自我とは、集団に溶け込んだ上で結晶化してくる、氷山の一角に過ぎない。それは心理的過程が、イデオロギー的に物象化したものでしかない。無意識的なレベルでも定義可能なアイデンティティなどというものはない。」
宇波 彰(うなみ あきら)
「デザインのエートス」
「自己のアイデンティティは、他者との関係の中でのみ成立する。自己同一性は首尾一貫したものではなく、他者を自分の中に取り込んでいくことによって、アイデンティティを作って行くプロセスであると考えられる。自己同一性といっても、自己は最初から最後まで決して同一のものではない。まわりの存在を取りこんでいく主体は確かに存在しているが、それは最小限の自己(ミニマル・セルフ)として規定される。」
少々難しい言葉が並びましたが、彼らの解釈で共通するものは、アイデンティティを完全に規定することは出来ない(規定したとしても「氷山の一角」や「最小限の自己」でしかない)、そしてアイデンティティは変化していくものである(「自己は最初から最後まで決して同一のものではない」、「他者を自分の中に取り込んでいくこと」や「無意識的なレベル」からの働きによって変わっていく)、というものです。
アイデンティティの変化は、世界を捉え直していくことであり、「分裂してしまった人間と世界、人間相互の関係を回復させようとする試み」でもあると宇波 彰氏は、積極的な意味を加えています。
アイデンティティは外部と内面との接点
アイデンティティは、常に影響を受けたり与えたりしながら変化する、関係存在です。外部=環境を片方の端、内面=精神や心理をもう片方の端として、絶えず揺れ動いている天秤、そのような例でアイデンティティをイメージして見て下さい。外部も、内面も変化するのが実態ですから、外部と内面のつながりであるアイデンティティも常に変化します。ですから自己とは、固定したものとして考えることは出来ません。
しかし、パスポートでもそうであるように、自己というものは外部から規定されがちです。あなたは何者ですか?と問われるなら、自分はどのような所属で何に従事していると説明するでしょうし、他の人であってもそうするでしょう。「この人はシャイだけれど優しくて、、。」という説明は、よほど親しい友人か家族のような関係性に限られると思います。また、現代社会は集団管理され、ビジネスでは人間性が希薄になっていく傾向があります。このように、外部から規定されたことが常に先になり、個人の内面は後回しにされ、放っておかれることも多いのではないかと思います。
アイデンティティをきっかけに、自分の内面を考えていくということが、この記事のテーマとなっています。
内面には、生まれ持って備えているもの、両親から受け継いだ肉体(遺伝)や素養など先天的なものと、生きていく中で身に備えていったもの、環境や教育から身に付いた知識や技術など、外部環境に影響を受けて備わった後天的なものがあります。どなたでも、多くの思い出や経験があると思いますが、それらは後天的に自分を形作っている内面です。思い出を辿る時、懐かしい場所に立ち寄った時、内面=アイデンティティの片側が天秤を揺らします。その揺れが、自己を再認識するきっかけとなり、「人間相互の関係を回復させようとする試み」につながっていくこと、ここに大きなアートの存在意義と可能性を感じます。
アイデンティティの一致⇔アイデンティティ・クライシス
環境の変化、心理的影響を受けた時に、アイデンティティは揺さぶられます。天秤があまり振れていないのが、アイデンティティの一致している状態、大きく揺らいで振り切ってしまうのが、アイデンティティ・クライシスであると考えます。アイデンティティ・クライシスを視覚化した好例は、ムンクの「叫び」です。以前、精神分裂病と言っていたものは、現在、自己同一性(アイデンティティ)障害という言葉に代わりました。これら例は病的イメージに直結しますが、アイデンティティが(誰にとっても)揺れ動いている状態が常であるなら、アイデンティティの一致とアイデンティティ・クライシスの違いは、揺れの大小であり、グラデーションで繋がっているもの、二分法で分けることが出来ないものと考えるのが妥当だと思われます。
アイデンティティの一致にしても、ある日突然、「悟りが開ける」ように生まれるとも思いません。リアリティを主体的に積み上げていく中で、ある瞬間に作品の上で、アイデンティティが一致することはあったと記憶しています。(しかし残念ながら、その状態はいつまでも続きません。)また逆に、ある日突然、振り子が振り切れてしまって、精神疾患になるようなことがあるとは思いません。それもリアリティの欠如が積み上がり、主体が希薄になり、その上でバランスを大きく崩すのだと思います。誰もが、病を得る可能性は持っていると考えるのが妥当だと思われます。
インターネット空間とアイデンティティ
アイデンティティを考える上で好例となるのは、インターネットでの匿名のコミュニティーです。そこでは、アイデンティフィケーション=名前など社会的属性を持たないでも構いませんし、更に国籍や人口など、社会に当たるもの曖昧です。ここでは、本来のアイデンティティは成立していると思いません。そのような世界が登場した当初は、第三の現実として善意の世界が革新を生むことを期待していました。しかし、悪意や感情の方がクローズアップされてしまい、歯止めが掛からなくなっているのが現状だと思います。
自分のリアル、他者のリアルがある世界には、規制があります。むしろ、不自由で窮屈に思えるぐらいに規制があるのですが、それが生まれてくるのは、自己と他のせめぎ合い、お互いの圧力があり、対話や議論など煩雑なプロセスが可能になるからです。不自由の中で、安定的な自由が確保されています。
一方、インターネットにおけるブレーキは(今のところ)、個々人のモラルやリテラシーに頼るしかありません。気楽で居心地の良いようでいて、自分のリアルが伝わりにくい、他者のリアルも感じ取りにくい空間では、対話や議論も敬遠され、コミュニケーションは「言ったもの勝ち」あるいは「何も言わない」のような一方通行になりがちで、実は、個々人が閉じた状況だと思います。幼児期の、自他の分限、善悪の分別がまだはっきりせず、癇癪を起こすと止まらなくなってしまう、そのような未成熟の空間、アイデンティティ以前のものをここには感じます。自由なようでいて、その自由が、常に他者に侵害されるかもしれないと思ってしまうような状況では、自分を解放することは出来ません。
ここでアイデンティティが成立するためには、自分のリアル、他者のリアルが、更にインターネット空間に持ち込まれる必要があると思います。(ネット・リテラシーだけでは、全く心許無いと思います。)自他の分限を教え、善悪の分別を諭し、癇癪を起こすとなだめすかす「母」のような存在が、インターネット空間に出現することは可能なのでしょうか?AIによる、インターネット空間全体の学習と判別は、「母」になってくれるかも知れません。しかし強権的な「父」となる可能性も持っています。
アートとアイデンティティの関係
クリエイティブでは、自分の想像力が、起点になることが多くあります。では、具体的には何を想像するか?、自分の体験して来たことを軸に、違う人だったら?違う国だったら?違う時代だったら?などを想像していくことになるでしょう。自分の体験していないことを想像するのは、難しいからです。つまり想像することは、必然的にアイデンティティについて、考えたり探ったりすることになります。
また、新しいものに触れた時に、なぜクールだと思うか?感動を覚えたりするのか?それは「自分には無いものを得る」からだと思います。私はアニメも好きで良く見るのですが、「攻殻機動隊」は、アイデンティティを通奏低音のようにテーマとした作品に感じます。また、人間と機械との融合、AIの自律、更に集団的無意識との合流という背景は、今でも十分に刺激的です。
クリエイティブな領域で活動している人で、人が感動を覚えるような良い仕事をしたいと思っている方は少なくないと思います。作品から感動を与えられることで、自分のアイデンティティが揺さぶられるような体験を持つ人は、やはり自分でも良いアートを作って、人のアイデンティティを揺さぶってみたいという野心も持つように思います。アイデンティティの共振関係とも言えるでしょう。
そのように無数のクリエイター、アーティストたちが、影響を与え合ってきた時間の流れが、美術史です。アイデンティティの共振の歴史とも言うことが出来ます。そこには、歴史に名を遺した人以外のたくさんの人達の影響関係、例えば、作品を見た人が影響を受け、それが違う作品となり、更に他の人に影響を与えていくといった総体があるはずです。美術史を紐解くには、時代背景や当時の社会の姿など、作者のアイデンティティの共振を、丁寧に掴んでいくことが必要不可欠だと思います。
方法論としてのアイデンティティ
アイデンティティを探っていく過程では、自分のリアル、他者のリアルというものが明らかになっていきます。そのことが、自分のアイデンティティを揺らし、それが「分裂してしまった人間と世界、人間相互の関係を回復させようとする試み」としてつながっていく、これはアートを作る大きな動機になってきたと思います。
例えば「分裂してしまった自分と世界の関係を回復させようとする試み」と言い換えると、更に個人的な強い欲求となって、アーティスト自身の問題としてアートが作られてきたことが想起されます。正直に申し上げると、何か足りないものがあるからこそ人はアートを求めるのであり、アーティストもバランスの取れた人であるとは思いません。例え外見はバランスが取れているように見えたとしても、内面には強い葛藤があったり、欠けた部分を熱望し、素材に向き合ったり、自分に向き合ったりした結果が、アートとして結実するのではないかと思います。バランスの取れた、振り子の揺れが小さな状態では、「何だかわからないが、心が揺さぶられる」アートは生まれないのではないかと。
このように、アイデンティティを考えることは、アートを作る重要な方法論になると思っています。アイデンティティを考えることとは、リアリティを主体的に積み上げていくこと、具体的には自分のことを考え、自分自身の心というものを大切にしていくことです。
師の榎倉康二氏の作品には、波打ち際のセルフ・ポートレイトがあります。この作品は、アイデンティティというものを強くイメージさせるものです。絶えず気候や月の重力の干渉を受けながら揺れ動いている波打ち際、その境界線に、彼は自らの肉体を横たえています。アイデンティティは他者や自らに沿う感覚でもあると、私は感じます。アートオンデマンドの作品制作では、そのような場を提供できればと考えています。