ーあいちトリエンナーレ「表現の不自由」展の、世間の反応について書かれたコラムです。ー

この展覧会は物議をかもしたわけですが、人々の心に深く爪痕を残しました。表現の自由とは何か?という大切なテーマに対して、とても貴重な機会を提供してくれたと言うことができます。展覧会終了を待って、表現の自由について考えてみたいと思います。

「表現の不自由」展は、展示を拒否された作品を集めたものでした。どうして拒否されたのか?拒否されたことは正当だったのか?その問いを鑑賞者に改めて問いかけるのが、これがキュレーターの意図だったと思います。
アートは自由、表現も自由、それについてどう感じるかも自由、であるはずなのになぜ拒否されたのか?アートの「不都合な真実」を大っぴらに突き付ける、大胆な企画だと思いました。
これはつまり、作品を作る側も、見る側も、自由という前提、自由に必要な要件を持っているか?「不都合な真実」を持つ社会の側面を受け止める器量があるか?ということを、同時に突き付けられる訳です。

アート領域

アートは、政治とは違う領域である。
アートは、道徳とは違う領域である。
アートは、ジャーナリズムとは違う領域である。
そして、過去、祭壇画など宗教画がアートの中心領域でしたが、現代はそこから切り離してアートは考えた方がよろしいかと思います。政治、道徳、ジャーナリズム、宗教とは違うことが、アートの活動領域であるということが出来ると思います。

政治、宗教それぞれの領域は、社会制度と共にあり、ルールが厳密だと思います。道徳、ジャーナリズムは、「こうあるべき」という方向性があります。しかしアートは、それほど社会制度によって「がんじがらめ」にされていないと思っています。だからこそ、自由に様々な視点や方向性を提供できる、その個性と多様性を担保することは「がんじがらめ」では出来ないからです。アートは、個人の自由、表現の自由に立脚していること、ご確認いただきたいと思います。

表現の自由とは

表現とは、自分が思ったり考えたりしたことを、人に伝えることです。
言葉、音楽、美術、手段はたくさんありますが、どう思いどう考えるか?だけではなく、どう伝えるか?というコミュニケーションも含まれています。普段の、日常会話など軽いものから、作品で多くの人に伝える重いものまであります。表現活動を経験した人はどなたもご存じでしょうが、多くの人に伝えるのは大変です。その大変さを凌ぐ「伝えたい思い」というものが、作者にはあります。アートでは、それがコンセプトになり動機となる、とても大切な中身です。

我々は自由だと思って日々を暮らしていますが、実は、法律によってがんじがらめに制約されています。私は自由だ!と人々が欲望のままに行動したら社会は崩壊してしまうので、「ここまでは自由ですから、しても構わない。」とか、「こういうことはしないで下さい。これはダメです。」とか、ルールの中で行動することを求められ、自由と不自由は常に同一梱包されています。だから、アートも完全に自由で「何でもあり」という訳では無いと思いますが、様々な領域の中で、アートの自由度が高いことには理由があると思います。

自由を保障する社会

個人の意思を表現する自由、これは憲法で保障され、人同士がどのようにしていけばお互いに幸せに生きていけるか?という歴史に裏付けられているように思います。しかし、今回かなり否定的な意見が多かった訳です。

アートは開かれている領域であれば、アートを否定してしまう事自体が、好ましいものでは無いと思っています。これはダメ!あれは金を出せない!というように制約をすると、自己制約をしたり、先入観を持ったり、思考を放棄したりするようになるからです。子供に、のびのびと楽しく絵を描いてもらいたければ、あれはダメこれはダメと制約ばかり付けてはいけません。鑑賞する人がNOということは自由ですが、美術館がNOと言ってしまう事は、個人の意思を表現する自由な場が無くなるということを意味しています。

また、アートの鑑賞方法として正しかったか?とも思います。多くの方が実際に足を運ばれたと思いますが、それ以上に、多くの人にインターネットで話題にされました。果たして、その内のどれだけの人が、実際に見たのか?作品のコンセプトを理解していたのか?疑問に思います。この展覧会は、鑑賞方法に則らず、表面だけが切り取られ、暴走してしまったのではないかと。

結果として、異を認められない狭量さ、作品としてまず尊重する鑑賞ルールがないこと、議論する習慣を持たないことなどが、浮かび上がってしまいました。「不都合な真実」を受け止める余裕の無い社会は、窮屈でとげとげしいものになってしまうと考えます。

不都合な真実は、自由のために必要

人間というものは、欲望のままに生きたいと思うもので、しかし、それぞれが欲望のままに生きると社会が破綻してしまうという、矛盾した不自由なところがあると思います。全部上手く行くことなどありませんから、必ず何か問題は生じます。その問題を放置することは、新たな矛盾と不自由につながるだけです。
例えば「それで良いの?」と問い掛けられると、一笑に付すことが出来る人は多くはいないでしょう。
大概は「本当に良かっただろうか?」と振り返るはずです。「それで良いの?」と問い掛ける役割、今回の出品アーティストたちも、そのことを意識したはずです。

過去、王は吟遊詩人を大切に保護しました。大英帝国ではシェークスピアが批評精神を発揮しました。権力側は、彼ら文化人に自由を保証する代わりに、「それで良いの?」という視点を提供してもらい、バランスを取っていたように思います。
「Watch」という意味では、
市民オンブズマンもそうです。政治に対して「それで良いの?」と問う役割がなければ、政治家たちが自分の都合の良いように社会を操作してしまうかも知れません。それを市民が見張り、「不都合な真実」があることを見付け、世論として挙げる役割です。

「それで良いの?」と問い、「Watch」を行う存在は、「それぞれの」自由を担保するために必要だと思います。歴史的に、アートが自由であるべき理由は「不都合な真実」を突き付けることの出来る社会的役割でもある、と思われるのです。

自由と多様性は、労力を伴う

色々な視点から、色々な表現がされるのですから、好き嫌いや意見の相違は出てきます。その後、相違をどう扱うかが問題です。感情的に退ける、無視する、これは今回でも起こった事態だと思います。更に暴力に訴えるなら、戦争という最悪な「不都合な真実」につながることにもなりかねません。「不都合な真実」は楽しくありませんし、心情的には否定的に受け止めることも多いかも知れませんが、立場を変えると、それぞれの好きや嫌いも変わるかも知れませんし、「不都合な真実」側に正当な理由があるかも知れません。まずは受け止め、それが喧々諤々遣り合うことになったとしても、議論するべきだと考えます。

本来、展覧会というものはコミュニケーションが土台になっていますから、展覧会に対するリアクションは議論です。一部の人々だと思いますが、中止を求める苦情が殺到し、はては恐喝なども起こった事実は、社会のヒステリックな一面をまざまざと見せつけることになりました。しかし結果的に、それが話題になり観客が殺到し、議論も活発に行われたことは、この社会がまだ健全に機能しているという面も見せてくれたので、良かったと思います。しかし始めから、「炎上商法」ではなく、「白熱教室」であるべきでした。

表現の自由は、当然認められなければならない。しかし、表現の自由を成立させるには、表現したものを「問答無用!シャットアウト!」ではなく、受け止め議論する、社会の器量が必要です。アートの意義も、もっと広く考えられなければならないものです。