頂いた質問で、一番多かったものです。
どうして「訳が分からない。」と思ってしまうのか?原因を上げていきます。

1.感情や認識

●作品を見る人は、それぞれが何かを感じ取っているはずだが、自分の感じ方に自信が持てない。
●未知のものに対して、どう解釈していいのか?と不安を感じる。
●安心できないものは、敬遠するという心理。

→それは、自然な心理だと思います。
未知のものや異なるものを警戒し、知っているものや同じものを(無条件で)受け入れる心理的バイアスは、良く知られています。更に、それが改善されないと、戸惑いや不快感になってしまうことも、多くのケースで在り得ることだと思います。これは、内容を知ることによって、見え方は全く変わってきます。

現代アート・カフェで、作品とその背景を調べてみました。

「マルセル・デュシャン 泉」
既製の小便器に、マルセル・デュシャンのサイン
●アート作品でもなんでもないもの(美しいものからかけ離れたもの)=便器(泉とは小便の比喩か?)にサインして美術館に展示されたらどうなるか?という実験的な作品
●1917年制作(第一次大戦終了は1918年末) →彼は、戦争に対して、どういう思いを持っていたか?→愚かな戦争に対して、それまでの文明を根底から疑った。(これはアート運動の仲間が発言しています。)
●ニューヨーク アンデパンダン展出品(公募展)→これまでの流れを汲む、印象派の影響を受けた作品が、旧態依然として並んでいる展示会場に、既製のもの=レディメイドを展示した。→アートかどうかは、「鑑賞者の頭の中で決まる」という事実を突きつけた→描くことを否定?
●公募展には出品を拒否される→美術界に大論争を巻き起こし、それ以降それが続いています。

参加した人コメント
→うっっそだろう?と衝撃を覚えました。新しい表現が分かるようになるには、鑑賞者も勉強や歩み寄りが必要。現代アートに対して、前よりも苦手感が少なくなりました。

知ること、経験することで、作品の感じ方は大きく変わってくるものです。作品をかみ砕いたり、分かりやすく説明したりする「つなぎ手」の存在は、重要だと思えました。

2.先入観

●多くの人が、作品は見るだけで良いと思っている。→コンセプトが煩わしく思える。
●多くの人が、心地いい、美しいものがアートであると思っている。
→「心地いい、美しい」ことが、理解する前提になってしまっている。→それ以外のものを、受け入れるのが難しくなる。

実際、このように感じる人が多数派であり、それが現代アートを「未知のものや異なるもの」として先入観となってしまうことが挙げられます。

実は、「心地いい、美しい」ことも、コンセプトです。皆さんが、慣れ親しんでいるため、すんなり理解できているコンセプトなのです。 例えば、デザインでは、どう心地いいか?どう美しいか?という企画立案が行われています。アートでも、コンセプトがあるのが普通なのです。コンセプト抜きで理解することの方が珍しいぐらいだと思われますが、それが一般的だと思えるような、ねじれ現象が起こっているのかも知れません。

まずは、「見るだけではないコミュニケーション」を模索し、コンセプト=作品が作られた動機や背景を理解していくことが、一般化されていくことだと思います。

3.マイナー

●メジャーについて
心地いい、美しいものが、多数の賛同を得ている原因は、歴史的土壌があり、万人が理解できるものとして、メジャーな立場があるからです。
⇔心地いい、美しいというコンセプトのアートも同様に、人々に理解されやすく人気のある分野であり続けるでしょう。美人コンテストも、コスメティック=衣料、化粧品分野も、これと近い関係にあると思われます。

●マイナーについて
心地いい、美しいという感じ方も、人それぞれで良いのではないか?或いは、心地よくなくても、美しくなくても良いのではないか?と、感じる人々は常に存在します。その人々は、未知のものや異なる価値観を提示します。そして、それは常に少数です。

メジャーは変わらないか?常に同じものか?というと、そうではありません。歴史的に見ると、メジャーとマイナーは、常に影響を受け合っているように見えます。
美人コンテストが下火になってきたのも、男性目線の優位性が崩れ、個性を尊重する社会意識が影響しています。コスメティック分野でも、肌色、標準色という表記が消えたのは、人種差別に対する社会意識が影響しているからです。保守VS革新や、右VS左に代表される対立構図のように思えますが、保持することと更新することは陰陽のようにお互いを補完する、表裏の関係にあります。

現代アートは、マイナーである立場は認めざるを得ないのですが、現代アートが、個性を重んじ、それぞれの表現する意志を尊重してきた歴史は、近代以降続いているので、決して短い訳ではありません。 個性を尊重し、表現の自由を担保するという意味での文化的役割は、マイナーであっても決して軽いものではないと思います。

4.変化を目的にするもの、愛玩を目的にするもの

アートのコンセプトで、心地いいもの、美しいものは、目を楽しませる=愛玩を目的にするものと思われます。アートのコンセプトで、今までとは違う視点、未知のものや異なる価値観を提示するものは、変化を目的にするもの(社会が変化するかどうかは結果次第ですが)と思われます。現代アートは、こちらに与するものが多いように思われます。

それは、どのような社会的背景から、それは生まれてきたのでしょうか?
●アートは、社会に対するコミュニケーションとされていた。
●哲学、化学、文化の先端は、社会の更新を期待されていた。
●これまでのものをどう改良し、どのような新しい視点を提供しているか?美術史では重要視された。

⇔この先、何を生み出すことが出来るか?という問いは、「ポスト・モダン」という議論の元になっていたわけですが、この議論は混迷を深め、未だに結論を出すことが出来ていません。新しいものはもう生み出せないという見方や、自分個人が新しいと思えばいいのだ!という半ば開き直りのようなコンセプトもあり、これまでの流れは滞留しているように思えます。

愛玩を目的にすることが多い保守的文化土壌からは、変化を目的にする作品やそのコンセプトの理解は、重く煩わしいものに映るかも知れないと推察します。しかしコロナ禍という歴史的事件は、「ポスト・モダン」や保守VS革新などを突き抜けてしまうかも知れません。「ポスト・コロナ」、その必然は、アートの世界にどのような変化を生むでしょうか?

色々な角度から考察した結果、長い説明になってしまいました。「現代アートが、訳がわからない」原因は、このような「分断」があるからですが、「分断」は放っておくと、積み木が一気に崩れるような状態になってしまうかも知れないと思っています。