現代アートに限らず、近代絵画は、どこからがアートで、そうでないか境界が曖昧です。 根拠はやっぱり「なんか良い」という感性でしか判断していないものなのでしょうか? それとも哲学的な意味合いが無ければダメなのでしょうか? アートかそうでないかを決めるのは、所詮、美術評論家の仕事なのでしょうか?
というのが、元の本文です。多くの質問が含まれていますので、一文ごとに分けて、お答えします。

「現代アートに限らず、近代絵画は、どこからがアートで、そうでないか境界が曖昧です。 」
そう感じるかもしれませんね。何でもアート、誰でもアートというのでは、納得がいかない?私もそう思います。でも、アートの語源を紐解けば、人工的に作られたものがアートである、ということになっています。 境界が曖昧なのではなく、全てアートと考えて構わないのだと思います。

「根拠はやっぱり『なんか良い』という感性でしか判断していないものなのでしょうか? 」
自分の感性に従って、正直に良いと思う、それでいいのではないでしょうか?
「なんか良いな~」じゃダメでしょうか?根拠としては、不十分でしょうか?
→人がどう思うかは、また別の問題だと思います。

「それとも哲学的な意味合いが無ければダメなのでしょうか? 」
哲学的な意味合いを持つ作品に良いと思うか、そう思わないか、やはりそれは個人の選択だと思います。まずは個人の感じ方、個人の自由を尊重します。

哲学的意味合いについては、現代アートにそのような小難しさを感じる方が多いと思います。なぜ、そのような表現を選択したか?、その原動力になるものは、「現状に対して、これで本当に良いのか?」という問いを持つから発していると、私は考えています。「これで本当に良いのか?」と思う人々は、この世の中に常に一定数存在するはずでして、 そのような人々は、アートの分野でも、「対社会」を考えます。 哲学は、社会を考える上で、重要視する人は多いように思います。
⇔現代アートは、「見える哲学」といういう言い方もあります。アートと哲学や心理学は、親和性があります。

「アートかそうでないかを決めるのは、所詮、美術評論家の仕事なのでしょうか?」
仮に、何でもがアートだとしても、「そのアートが良いものだ。価値のあるものだ。」と、誰かが判別して欲しい、そう思う人も多いでしょう。どのアートが良いか?根拠を提示するのは、評論家の仕事か?と言われれば、そうでもあると言えるし、そうでも無いと言えると思います。
「所詮」という字句に乗ってくるニュアンスを汲み取ると、権威にひれ伏さなければいけないの!とか、我々の席はそこに用意されているの?という気持ちが、潜んでいるように感じました。
まず、アートにどういう人たちが関わっているか、風呂敷を広げてみましょう。

アート業界 構成メンバ-

作家、美術館関係者、画廊関係者、アートマーケット関係者、愛好家
愛好家の中でも
1,アートマーケットの参加者、2,趣味で行う人、3,鑑賞することが好きな人
評論家の中でも
作家兼、美術館関係兼、画廊関係兼、フリーランスと様々。

アートの評価というものを、評論家が、内輪でひそひそ決めているイメージを持っている方は、私も含めて、多いかも知れません。しかし、関係者を広げてみるとその関係は複雑で、評論家だけが評価を決めてしまうということではなさそうです。近年、アートマーケットが興隆していますので、画廊やアートマーケットの参加者の影響も大きくなってきていると感じます。

評論家について
評論家は、まず現代アートの通訳者であり、次に作家の声を代弁して広く伝える役割を持っていると思っています。私は、見方、考え方の素晴らしい人が、次第に評価を受けて、評論家になっていくと考えています。そして、評論家と言われる人たちは、見方、考え方だけで判断するのではなく、理論的裏付けや、多くの作品を見て来た経験値で、根拠付けが出来る人たちなのだと思います。

美術史のムーブメントには、抽象表現主義=ハロルド・ローゼンバーグのように、代表的な評論家が登場します。当時は、今より情報が一方通行の時代ですから、評論家は権威的だったかも知れませんが、当時でも色々な評論家同士で喧々諤々やっていましたし、時代の影響、人々の賛同は少なからずあったはずです。専門的立場としての、評論家や学芸員の影響力は、今でも大きいと思いますが、情報がはるかに多く早く双方向で出回ることで、評論家としての在り方も、当然変わってくると思います。

他方、キース・へリング、バスキア、バンクシー等の作家は、それを目にした市井の人々が、「これは良い~」と言ってレコメンドしたことから、現在の評価があるわけです。今は、このようなアーティストが、更に出やすい状況がありますし、評論家も市井から出てくるかもしれません。既存のものを前提として考えてしまうのではなく、今までとは違うルートで、「席が無ければ、自分で作る」ことも出来る時代なのだと思っています。

見方、感じ方
見方、感じ方も、鍛えていけるのだと思っています。作品を見たり、デッサンをしたり、文章を読んだりすることで、見方、感じ方が変わって行った経験はありませんか?
「なんか良い~」だけで終わらず、吟味し、様々な解釈と照らし合わせたりすることが、大切だと思うのです。その結果、見方、感じ方が研ぎ澄まされ、そのような人の中から専門家が生まれてくると考えています。

ただ、専門家でも、最初は「なんか良い~」から出発しているはずです。私の考え方は、自分の見方、感じ方は、否定でも肯定でも自信を持つでもなく、それはそれとして扱います。評論家の言葉は、権威と捉えてしまうことではなく、自分の解釈と照らし合わせて、疑問に思う部分が有れば聞いてみれば良い、と思います。