現代美術がこれまでの美術史の流れの中で研ぎ澄まされた価値観とすれば、美術界だけのニッチな価値ではないでしょうか?
というのが、元の本文です。

現代アートというものが、現代アート業界だけで成り立ち、その中だけで価値を決められ、鑑賞されたり売買されているとするならば、そういうことになるでしょう。しかし、文化というものは、社会に対して開かれたものです。社会的なコミュニケーション、このことをそれほど意識していない作家も、鑑賞者もいらっしゃるでしょうが、私は社会的なコミュニケーションを意識しないならば、文化としての位置付けが揺らいでしまうと考えています。

これまでの美術史の流れの中で研ぎ澄まされた価値観とすれば
という仮定ですが、美術史が美術史だけで成り立ってきた訳ではありません。
シュールレアリスム⇔精神医学の発展(フロイトの発見)
印象派⇔写真の発明との影響関係
未来派⇔社会思想を取り入れたムーブメント

そして最大の影響を与えたといっても過言でないものが、2つの世界大戦。アートの中心地が、パリからニューヨークに移った原因もここにあります。また、作家がテーマとしていることも、美術の中で見つけられたものもあるでしょうが、社会自体からテーマを見つけた事例がたくさんあります。このように、アートは常に社会の影響を受け続けています。

美術界だけのニッチな
この文言はまさに、縦割り社会、蛸壺、村社会をイメージさせるものです。閉鎖的で、それぞれの、美術界、医学界というように分野が独立して、社会から切り離されている印象をあたえます。そういうところは現実的にあり、透明性確保と喧しいのは、そのせいだと思っていますが、それは部分であって、全体ではありません。

美術史を良く見ていくと、アート以外から、次の新しいアートが起こって来ている事例が多いことが分かるでしょう。つまり、作家を目指すのなら、社会のことを見ていった方が良い、ということになると思います。村社会というのは、構成する人々の意識が内向きであることから起こると、私は考えています。先に申し上げましたが、文化というものが社会的なコミュニケーションを目指す限り、開いていく方向を目指して行くことになるはずです。

現代アートは、確かに現状では、社会的に認知度が低いのかも知れませんが、文化として閉じているものではありません。また、例えニッチであったとしても、文化の多様性を担保することは必要だと考えます。