現代アートは哲学であり、娯楽ではない” と聞いたことがありますが、精神をえぐってくるような思想的作品でないと現代アートとは言えないのでしょうか?
というのが、元の本文です。分節に分けて、説明していきます。

精神をえぐってくるような思想的作品でないと現代アートとは言えないのでしょうか?
そんなことはありません。現代作られているものは、すべからく現代アートだと、まず考えて良いと思います。現代アートと言えるかどうかの判断は、鑑賞する方の判断で構わないと、私は考えています。

思想的作品
そのような作品が、気になっていますね?
思想的作品→哲学とアートの関係ということになると思います。
これで本当に良いのか?とか、何かを変えて行かなければ?と思う人々は、世の中に常に存在します。
そのような人々は、アートの分野では、作品に社会的メッセージを込めます。
哲学もまた、社会的メッセージを補完する理由で、現代アーティストの中では重要視する人は多いと思われます。⇔現代アートは、「見える哲学」といういう言い方があります。個人的に、現代アートと哲学、心理学は、美術史的にも親和性が高いと思っています。

精神をえぐってくるような
この文言は、とても感動的表現です。
感動的な作品との出会いから、見る人の心の中に生まれるものです。
そのような作品との出会いによって、得るものはとても大きいと思います。私も、過去そのような経験があります。そのような経験が無ければ、作家を目指さなかったと言い切っても構いません。

感動には快もあれば、不快もあると思いますが、質問者はそのような経験を持ちながら、精神をえぐってくる不快な表現、難解な表現に対して、釈然としないものを感じていると思われます。快不快、さまざまな出会いを経験して、ご自身にフィットする感動を得る経験を持てば、この問いは解消すると考えます。また、そのような感動を探す機会をもっと持っていただければ、とも思います。

現代アートは哲学であり、娯楽ではない?
思想を含むアートは、確かに確かに重く感じられるかもしれません。
それに対して娯楽は、軽く楽しめるものです。
例えば、NHKドキュメント「映像の世紀」は、映像が生まれてからの歴史を追うものですが、科学の発展と共に、大量破壊兵器を生んだ戦争の惨禍をまざまざと見せつけるものでもあります。私は、必見の映像だと思いますが、重いから見たくないと思う人が多いことも確かです。一方、「鬼滅の刃」は、命の遣り取りはリアルで残酷なところがありますが、娯楽作品として多くの人が楽しんでいる現実があります。

この言葉を使った人は、大勢を上手く例えています。確かに、重いものはマーケットになりにくく、軽いものはマーケットに受けやすいということが、実際です。ただ、哲学を娯楽とするような人もいないわけではないし、現代アートが難しくないと思う人もいないわけでは無いと思いますが、残念ながら、そういう人が少数派であることは認めざるを得ません。しかし、メジャーが良くてマイナーは悪いのか?、簡単なものが良くて難しいものはだめなのか?と問われると、そうではないと言えます。

哲学の必要性、娯楽の必要性、それぞれあると思われますが、現代アートは両方を考えていくべきだと、私自身は考えています。

問題の根はどこにあるか?
この言葉が、現代アートも哲学も、どちらも小難しそうで敬遠するという中身であるならば、一般から乖離しているという状況こそ問題であるということになります。乖離を縮めていくには、現代アートと哲学を、易しく紐解いていく以外に無いと思われます。

しかし、それを個々各々が手弁当でするのは大変過ぎるという、議論が出て来るでしょう。そんな余裕など無い!ということです。アートと教育が連動して、一般教養として取り入られる必要性は、私の知る限り30年前から存在していました。それにも関わらす、アートの授業が減らされ、基礎教育が削られていく今日の状況では、それが実現するのを待つのは時間の無駄だと、私は考えるようになりました。出来るところから、出来ることをする、それが現代アートカフェという形になった理由です。