美しい絵を描くという行為が目的そのものから、目的のための手段になったと考えると、バンクシーの様な作品が理解できる一方で絵画そのものは価値を破壊されてしまったのでしょうか?現代の絵画の担うものがあるならば何だと思われますか?
というのが、元の本文です。分節に分けて、説明していきます。

美しい絵を描くという行為が目的そのものから、目的のための手段になった?
近現代アートの中で、手段も目的も、人それぞれが自由に答えを出すようになりましたので、「美しい」という定義もそれぞれ、「美しい」という感じ方もそれぞれ、ということになりました。「通常の美しい絵画」という定義が、これまでの美術史で破壊されてきたことには、同意します。バンクシーはグラフィティという方法で作品を作っていますが、確かに「通常の美しい絵画」とは違います。しかし、彼が特別なのは、手段によるものでしょうか?内容でしょうか?

絵画そのものは価値を破壊されてしまったのでしょうか?
AIが絵を描いたら、もう人間は絵を描く必要は無い。そう思う人も、思わない人もいます。
マルセル・デシャンが、絵画を否定したので、もう描く必要は無い。そう思う人も、思わない人もいます。
歴史上、誰か既に作った作品に、似たような作品はもう作る必要が無い。そう思う人も、思わない人もいます。皆さんがどう思うかは、皆さんにお任せするしかありません。

確かに、マルセル・デシャンの作品は、とても破壊力があると思います。描く意味を破壊されてしまったと思う人は、当時からたくさんいたでしょうね。しかしそれは、絵画の価値を破壊することとは、別です。絵画は、その後も描き続けられています。

→私はというと、そういうことは全く感じません。問い直すことが出来、自分の作る意味を考えていくことが出来る限り、作り続けることが出来ます。

現代の絵画の担うものがあるならば何だと思われますか?
例えば、歴史をどう考えるかということにも似て、歴史は大切だと思う人がいる反面、歴史は自分にはまったく関係ないと思う人もいるでしょう。今生きている我々が、何を目的に描いて行けばいいのか?何を担って行けばいいか?個々それぞれの考え方があります。前段のからの続きで、絵画は破壊されてしまったから、この先何も描く必要は無い、そう思うことも自由です。

しかし、繰り返しになりますが、絵画が破壊されてしまったとか、「絵画とは何か?」「描くという意味は何か?」という問いが無意味になったとは、私は思いません。新しい絵画を作る!そう考えて、それに挑む人は、後を絶たないでしょう。

翻って、あなたが絵を描き続けていくなら、あなたが絵画の何を担っていくのか?という問いに、変わって行くと思うのです。自分の描く意味を見つけれるよう、頑張ってください!

受講者さんコメント
分かりやすく美しく上手に描いてある絵画、というのが「素人受けする絵画」「昔からある平凡な表現」という位置づけになっているようには思います。「革命的」「実験的」「先駆的」な芸術家が、素人が見たら「?」と思うような、新しい表現をするんですね。

個人的には、自分の描きたいものというか、自分の見てみたいもの?というか、は自分でしか描けないんじゃないかなと思っています。コンセプトを伝えるだけなら、写真でも映像でも良いような気はします。

何か表現したいものがあって、その手段として「絵画」を選んだのか。それとも「絵画」を描きたいから描いているのか。そこで、だいぶ話が違うかも知れません。私は、紙に絵を描く指先の感覚みたいなのが好きで、絵を描く行為そのものが好きです。

講師
ネット上でたくさん上手い人がいたとしても、自分が絵を描く必要が無いとか、意味がないということには、私はならないと思います。自分にとって、絵を描くことが必要であると思うのなら、意味があるはずです。

アーティストだけではなく、それぞれ自分自身の立っていたい場所、見て行きたい方向、何をテーマとするかという選びがあると思うんですね。「絵画を描きたいから描いている。」というのも、テーマの一つになると思います。ただ、色々知ると、色々広がって、色々考えさせられることも出て来ると思います。でも、それが更新には必要なことです。
「作りたい!」という動機に疑いがなく、しかも作品の意味を更新し続ける人たち、それが巨匠たちです。是非、アート・コースで、そのことを取り上げたいと思います。