奇をてらったインパクト重視の作品も現代美術の特徴のように思います。 ポップな装いで開けた印象も与える一方で、美術系の書籍で現代美術の読み解き方特集などがあるように美術史の知識がないと理解出来ない作品があると思います。 鑑賞者は作品そのものの理解が難しいとき、作者の略歴に例えば美大卒とある事で専門に学んだ人が作ったのだからこれは素晴らしいものなのだと思う場合があると思います。 例えば私のように学歴のない人間が作った作品がたまたまアカデミー出身者と同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合、批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むのでしょうか?
というのが、元の本文です。たくさんの文章が組み合わさっていますので、一文ずつ分けて、紐解いていきます。

奇をてらったインパクト重視の作品も現代美術の特徴のように思います。
奇をてらうという言葉は、人目を引く目的で、大袈裟に誇張して見せるということを表しているのでしょうか?そう思えてしまう作品も正直あります。直接、作家に聞いて回ることも出来ないので、真意は測りかねますが、そのように一括りにすることには抵抗があります。そのような表現が、マスコミなどに取り上げられやすく目立つということはありますが、では現代アートは目立てば勝ち!とも思わないのです。美術史の中では、静謐な雰囲気を持つ、思索的な作品もあります。

現代アートは、そのような表現ばかりではないこと、そのような表現がされても、メディアを利用する広報宣伝戦略と考えることが出来ます。作家の自由ですので、表現の幅は、広く理解していく方が良いと思います。

美術史の知識がないと理解出来ない作品があると思います。
私は、作品を見るだけでも、感動することはたくさんありました。美術史を知ると、作品の理解が更に深まりました。作品を見るだけで構わない人、作品が出来た動機や背景を知りたい人、また美術史を理解したいという人など様々なアプローチが有ってもいい、それはアートに触れる前提です。ですから、それは見る人の任意であって、理解できない作品ではなく、見る人の理解したいと感じる度合いによって、作品の見え方が変わって来る、ということではないでしょうか?

また、鑑賞者が、コンセプトを知る、歴史を知る、背景を知るなど、知識を得たいと思うことは、歓迎すべきことです。最近、美術館では、WIFIで解説が聞けるようになってきました。知識を得たい人の、要望に応えることは今では普通になってきています。そもそも現代アートだけではなく、文化は社会的コミュニケーションを目指すものですから、理解できない!という方でも、気軽に知識を得るためのコミュニケーションがもっとあっても良いのではないでしょうか?私もそのために現代アートカフェを企画しました。

鑑賞者は作品そのものの理解が難しいとき、作者の略歴に例えば美大卒とある事で専門に学んだ人が作ったのだからこれは素晴らしいものなのだと思う場合があると思います。
一般的に、このようなことは良くあります。この文章は、美大卒で専門に学んだ人が作ったからといって素晴らしいものとは限らないだろう?という意図を含んでいるのでしょうか?だとしたら、その通りです。すごい作品が意図せず出来てしまうこともあれば、いくら巨匠と言えども、なんかピンと来ないな~という作品もあります。学歴で判断する人もいる、そうでない人もいる、一般的事実としては肯定します。

例えば私のように学歴のない人間が作った作品がたまたまアカデミー出身者と同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合、批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むのでしょうか?
こういうケースは、なかなか想定しにくいものです。
コンクールの場で「同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合」は、かなり可能性の少ない仮定です。あったとしたら、盗用のある場合でしょう。
更に、批評家が、学歴で評価を決めているのではないか?と聞いているわけですが、そうだとは決して答えられません!私は評論家ではありませんが、さすがに評論家を擁護したいと思います。
●批評家が単独で審査することはまれですので、不公平な状況は生まれにくいと思います。
●今のネット事情を知っている人なら、審査でそのようなリスクは侵さないのでは?と推測します。
ただ、コンクールの審査というものが公開されているわけではないので、コンクールの結果が芳しくなかった時には、いろいろ想像してしまう気持ちは分かります。

マイナス・イメージと学歴という言葉
質問には、現代アートに良いイメージを持っていないことと、学歴が無ければ不公平で不当な立場に立たされるのでは?という印象がちりばめられています。これは、現代アートにはひっかけてはいますが、質問の形を借りた、「学歴の壁」に対する訴えかも知れません。

学歴というものに対して、一般的に、厳しい受験を得て、先生や仲間に出会い、研鑽を積んだ経験について、一定の評価はあると思います。日本は世間というものが強いので、実力以上に学歴が評価されてしまう現実も、確かにあると思います。

また、勉強の機会は、その人の考え方、境遇に左右されますので、公平なものと言い切れません。大学に行けない人も行かない人もあるでしょう。大学に行けるということは、幸運なことと思えるかもしれません。しかし、学歴というものは、若いころの短期間のことですので、長い目で見れば、学歴に関わらず、その人の努力で身に付けた実力が発揮されていくと、私は思っています。

主眼を置くべきなのは、コンクールにしても、大学に行くしても、大学以外でも、実力が基準になるはずです。「私のように学歴のない人間」とおっしゃっていますが、大学に行った人と同じような努力をして、実力を身に付ければ良いのです。大学の実力とはどのようなものか?受験はどのようなものか?先生はどのような人がいるか?どんな研鑽を積んだのか?まずは、調べたり聞いたりして、その中身を知りましょう。次に、どのような努力をすれば、その実力が身に付くか考え、実行しましょう。後続を行っているマラソンランナーのように、追い付くまで、実行し続けましょう。本人の努力次第で、コンクールで勝つことは出来るはずです。

受講者の方の声
「コンペの申込用紙に学歴の欄があるのが不思議ですよね~。」
「たまに見かける、美術関係者の推薦が必要条件になるものは何故あるのでしょうか?」

コンクールは、たくさんの人が応募すればするほど、審査の、一人一人に掛ける時間も、分割されてしまいます。差別に感じるかもしれませんが、学歴が選考基準の一つになってしまう現実はあると推測します。また、大きさ、期間、傾向など、様々な制約も伴います。コンクールは、実力を測るのに適している部分もあれば、そうでない部分もあるということです。コンクールが全てとは思わず、評価を問う手段の一つとお考えになることをお勧めします。

ただ、絵というものには、その人の実力や内面が曝け出されて「一目瞭然」になるところがあります。だから第一次選考は、作品だけを見て判断し、学歴を参考にするのは後にする、健全なコンクールなら、そうしていると思っています。また、たくさんの作品を見て来た目利きの審査員が、実力通りに評価してもらえると考えた方が、精神的にも前向きになれます。更に、現代アートは、学歴の影響が極めて少ない、開かれた世界だと、私は思っています。

頑張ってください!